投稿者「ヤマシタクニコ」のアーカイブ

ヤマシタクニコ について

夜になると目が冴える。休日の午前は私にとって存在しない世界。 ぼうっといろんなこと考えるのが好き。なのに気が短い。なんでだろ。

映画その他ここ数日

ばたばたしていてブログ書けなかったのでまとめて。

9日は統一地方選挙だった。予想された結果。暗澹たる気分。

映画を観に行ったんだった。しかし印象薄い。
何を観たかというと「生きる LIVING」。黒澤の有名な、でも私は観ていないし観る気がしない映画「生きる」のリメイク。舞台は1950年代のロンドン、脚本はカズオ・イシグロ。映像はとてもすてき。(冒頭はまるでそのころのフィルム映像でどうなるかと思ったけど本編はふつうに美しい、現代の映像)でも、印象薄い。ものたりない。話が甘すぎるんじゃないか、と甘いお話が好きなヤマシタもつい言いたくなる。ああそうか。「美しくないもの」が映像からもお話からも除外されてるわけだ。

高校の同級生たちと会っておしゃべりした。さすが年取ったものだ・・・私が。
あのころみんな、世間のこと何も知らない高校生だったのに、みんな苦労したよね、と思ってジーン・・・となる自分にがっくりくる。まるでふつうのばあさんだ、これじゃ。そして「それで何が悪い」とたちまちつっこむもうひとりのばあさん、自分がいる。

ここ数日、頭が痛い。いや、これは比喩ではなくほんとに頭が痛い。バファリンのめばすぐ治る程度だけど。
病気になったとき「なんだかこのごろしんどいな」と思い始め、それがなかなか治らず、ひどくなる一方だった記憶があるので、体調がちょっと悪いだけで心配になるのだけど、今はたぶん疲れてるんだろうと思う。病気して以来、毎日体重と体温を測るのが習慣になってるけど別に熱も出ていないし。体重は、やっとダイエットの効果が出てきたかなというところ。

そうだ。しばらくぶりに難波で下車したら駅前が工事中で信号がなくなってて、そういえばここ、歩行者天国にするというニュースをだいぶ前に読んだなと思い出した。

というわけで、写真は難波の駅から少し歩いた「でんでんタウン」のとこの交差点。

また新聞のことを考える

4月5日の朝刊を手にしたら1面に「読者のみなさまへ 購読料改定のお願い」とあった。「5月から月ぎめ4900円に」と。
現在は4400円。今はなんでもかんでも値上げだが、朝日新聞は2年ほど前に値上げしたばかりだ。その時は読売が先行して値上げ、朝日が遅れて値上げして同額に並んだ。今度は読売はしばらくは値上げしないという。でも、たぶん様子見でそのうち上げるのだろう。

朝日についてはそのちょっと前にも「河北新報に委託している朝刊印刷を拡大して宮城、山形、福島の3県について、一部印刷から全県分の印刷に切り替える」との記事が出ていたし、値上げが報じられた同じ日には「5月1日から、愛知、岐阜、三重の3県で夕刊を休止」との記事も出ていた。状況はかなり悪いようだ。

前もこのブログで新聞のことを書いた。そのときは朝日もどこも、根性なしでつくづくいやになった、ようなことを書いたように思う。購読料も高いし、そもそもネットに比べて遅いのはいうまでもなく、だからもうやめようか、でも・・・みたいな。

今回、さて自分はどうするつもりなのかと自分で考える。なんだかしょっちゅう試されてるような気がしてほんと、めんどくさいんだけど、たぶん、このままヤマシタさんはやめないようである。

どうもやはり、自分は新聞や雑誌が好きだし。ニュースは速報性でネットに劣るけど、すでに今はネットと併用なわけだから別にいい。そして、新聞はニュースだけではない。ニュースを拾い読みするだけの人ならネットニュースのつまみぐいで十分だと思うけど、たぶん私はそれだけでは毎日が味気ないと思うようになるだろう。無理。

このままではそう遠くない「新聞の終焉」を見届けるのも悪くないか。そんなことを思い始めた。

写真はクスノキ。昨日は雨だった。

脱皮した

昨日の夜、パジャマのズボンをはこうとしたらなんかひっかかった。あっ、と思って見たら左足の親指の隣の指、人差さないけど人差し指といわれる指の爪がはがれそうになってる。うわ、たいへんだと思い、そうっと椅子に腰掛け、よくよく見たらなんと、次の爪ができてるじゃないか。はがれそうになってる爪の下に。

なもんで、はがれそうになってた爪を遠慮なくはがした。
いやー、すごい。まじまじ見る。
生まれたばかりといった感じのたよりない、新しい爪がそこにあった。
生えるんや・・・。

その指は何ヵ月か前、たぶん、ちょっときつい靴をはいて歩き回ったせいか、気づいたら真っ黒になっていたのだ。なんだこりゃと思って検索したらどうやら「爪下血腫」というやつらしい。爪が黒くなったのではなく、爪の下に血腫ができていると。
別に痛くないし、ほっといた。
最近、だんだんその爪がまだらに白くなってきてた。つまり血腫が消えつつあった。
あ、そういえば爪を切ろうとしたとき、なんだかふわっと・・・浮いているような感じがしたので、さわらないほうがいいと思った。いや、そもそも爪が伸びてないことに気づき、切らずに終わった。
すでに爪は死んでいたのか。

サッカーやってた人などはこういうのを何度も経験しているそうだ。

今年の桜

毎年桜は咲いて、毎年人は花見に行く。よく飽きないものだ。
と自分でも思うが、やはり今年も人並みにカメラ持って歩いた。近くだけど。
ここは駅前を過ぎて、ちょっと歩いたところ。陸橋の両脇に桜が植っていて「桜のトンネル」とかいわれる。

ここの桜はみんな、株立っていうのかな、根本に近いところから分かれてる。それで、低いところから花がたくさんあるし、「トンネル」の天井が低い。トンネルを抜けると、ちょっとおおげさだけど「明るい」と感じる。いや、実際、遠目に見るとこんなふうにすっぽりおおわれてるし。(下)

桜はやはり枝がぐにゃ〜んと下がってのたくってるようなのがかっこいいよね。まあ好みかな。幹がまっすぐで箒を立てたように枝を広げるのがかっこいいと思う人もいそうだ。
ここの木は下のほうを見るとまるで「やまたのおろち」みたいで若干不気味な感じもする。今年は、なんでか知らないけど黒い網でおおわれていて、いっそう不気味だった。

で、のたくった枝のすきまから向こうを見ると人が立ってる。写真を撮って気づいたら向こうもスマホを向けているじゃないか。
向こうからこちらは、どんなふうに見えたのかな。

つくしは伸びるが

昨日、いいお天気なので公園に行こうと思い、駅前の交差点のそばの法面を見たら数日前は確かに、いくら目をこらしても(最近視力落ちてるので)なかったと思えるつくしがいっぱいに出ていた。そこは毎年、つくしが出るんだけど、たいていタイミングをはずしていて、早すぎたり、かと思うともうスギナの陰にちょっと見えるだけだったりする。今年はまあまあよかった。

それにしても、大江健三郎も死んでしまったしなあと思う。

え、ヤマシタさんって大江健三郎に影響されたことあるんですか? そんな風には見えませんけど?! 書くもの、全然ちがいますよね?!と言われそうだ。うるさいわ。

私もね。こう見えてもね。と、ここは姿勢を正して熱っぽく語りたいところだが、如何せん・・・。没後にいろいろ出た記事で「『同時代ゲーム』はコレコレのテーマをこうこうしてこうした作品で」とか書かれていると「そ、そうだっけ・・・うん、そうだったような気がするなあ・・・」とあたふたするばかり。たぶん、私は何もわかってない。
わかってないけど、やはり大江の作品には惹かれた。難解と言われる文体も私にはただかっこよく、どうしたらこんな文章が書けるのだろうと思った。最初はとっつきにくくても、一旦物語世界に入り込むとおもしろくて夢中になったし。

最近はあのころに比べると読書量も減っているし(←「あのころ」も大したことなかったぞ)、大江も晩年の作品は読んでない。
でも、大江について語られた記事(当然、文学や哲学の、その道の第一人者と目される研究者による)を読むだけでも、なんだか背筋が伸びるような、こんなことじゃいかんと叱咤されているような気持ちになる。大江健三郎だけでなく、私が憧れていた「先輩」たちの世界を感じるから。憧れですけどね、単なる憧れ。

しかしまあ、いつの間にかこんなに年月が経って。
かつて聞きにいった講演会ではユーモアたっぷりに語っていたあの作家が「老衰」で亡くなっただなんて、そんなことがあろうかと思うが、あるんだなあ。さびしいもんだ。

まあ最初に書いたように私が大江のことなんか口にしても笑われるだけだろうから、これからも知らん顔しておきたい。
そして、ひそかに、知らん顔して作品を読み返そうと思う。

映画観てきた

おととい、「フェイブルマンズ」を観てきた。恥ずかしながらスピルバーグ好きだから。はじめて「おもしろい!」と思った映画が「未知との遭遇」だったし。

え、それ以前はおもしろいと思わなかったの?と聞かれそうだけど、そうなのよ。「未知との遭遇」のとき、すでに子供でもなんでもなかったけど、そして私の若い頃は男の子とデートといえば、無難に「映画」だった(今はどうなんだろ?)のだけど、特に・・・あ、そうか。その場合はだいたい男子から「○○観に行かない?」と提案されて、なんとなく特に反対するでもなく一緒に観た、という感じだったと思う。主体性ないんです、私。スピルバーグがこの世にいなかったらずっと、そういう状態が続いていたかも。人に勧められて観て、まあこんなもんかな・・・よくわからんな・・・みたいな。

なので、スピルバーグといえば私の恩人。その、恩人のスピルバーグの作品を最近観ていなかったので寂しいと思ってたところなんである。

「フェイブルマンズ」はスピルバーグの自伝的な物語だそうだ。その通り、主人公が子供の頃に映画に魅せられ、自分で映画を作り始め、どんどんのめりこみ、一方で家庭でも学校でもいろいろあったけど、ついに念願の映画の道を本格的に歩み始めるというところまでが描かれる(荒っぽい紹介)。

映画にくわしい人はこういう映画を観たらたぶん、もう、いくらでも語り出すだろう。あの映画は、とか、あのシーンの意味は、とか。
正直私はそのへんはちゃんとわかってない。私的にはクローゼットでフィルムを見せられたママの表情が次第に変わり、やがてはらはらと涙するシーンがクライマックスだ。
バート(パパ)もベニー(パパの親友)も、そしてママもみんないい人で、魅力的で、それでもしんどいことは起きてしまうのだ。そしてママが言うように「起こったことにはすべて意味があるのだ」。

あ、下の絵は全然似てないですが、気にしないでください。

映画観てきた

昨日観たのは「小さき麦の花」。中国の映画だ。

中国の映画を見ていると、しばしば都会と農村の格差に驚く。この映画でもそうだ。いつの話だろうかと思っていると2011年である。確かに、都会に出ていくとそこは普通の現代の街だ。ただし、主人公はそこにロバを連れ、荷車に荷物を載せていくのだけど。こういうところがおもしろいと言うか、中国は不思議な空間である。

甘粛省の砂漠がすぐそばに広がっているようなところで農民として暮らすヨウティエが障害(足が不自由なだけでなく排尿障害がある。脊髄の障害なのか)のある内気な女性、クイインと結婚、ふたりで暮らし始める。土地を耕し、麦をまく。それだけではなく、土を練って型枠に入れ、表面をならして地面にひっくり返し、乾かす。レンガがそうやって2個ずつできる。日々それを繰り返し、レンガがどんどんできる。それを積み上げて家を作る。おお、家はこうやってできるんだ! 自分たちが住む家は自分たちで作るんだ! なんだか感動する。さらに、鶏を飼う。豚を飼う。麦だけでなくとうもろこしやジャガイモも収穫する。暮らしがだんだん安定してくる。
おー、すごいなあと思う。人間はこうやって生きてきたんだ。そして、夫婦というものはこのように2人でともに働き、支え合ってきたのだと思う。

ヨウティエはものすごい働き者だ。手際がすごいなと思ってたら演ずるのは本職の農民で監督の叔父さんにあたる人だそうだ。プロの俳優ではないが、すでに何度か映画に出演しているとか。

家をつくる途中、屋根の樋にガラス瓶を埋め込む。なんでそんなことをするのかよくわかってないのだけど、夜に風が吹くとそのガラス瓶が歌うように鳴る。
「前の家よりいい音で鳴る」と妻のクイインがうれしそうに言う。そうなんだ。自分たちの家だもんな。

2人は見合い結婚で、特に感動もなく一緒になったように見えた。だが、実際は会ったときにすでに感じるものがあったようだ。互いの優しさ、誠実さに。そしてゆっくり、ゆっくりと日々を重ねているうちに愛が深まってゆく。このあたりが丁寧に丁寧に描かれ、見ているうちに涙があふれる。愛する人とともに生きることほど幸福なことはない。そう強く思うから、でも一方で、こんな幸福は長くは続かないのではないかという予感がして。そして、予感はあたるのである。

風景がとても美しい。土にまみれた仕事着の色合いも自然の中に溶け込み、いい感じである。
ロバってかわいいなと思った。冒頭のシーン、花びらのような大きな雪片が舞う中で初めて登場するあの白と黒のロバが、ほんとにかわいく、2人をけなげに支えてくれるのである。

アップグレードはたいへん

最近、どうもこれはOSをアップグレードしないといけないなと思うようになっていた。
facebookの仕様が一部変わったがsafariがそれに対応できていないみたい。コメントを読むときに別ウインドウが開くのだが、そこでうまくスクロールできない。下のほうのコメントが読めない。
yahoo!のトップページに何か注意書きが出る。どんなだったか覚えていないけど、要は「君のブラウザでは悪いけどちゃんと表示できないよ」ということらしい。
気分悪いのでfacebookやyahoo!を見るときはChromeにしていた。全面的にChromeにしたらよさそうなもんだけど、それはそれで若干問題があって(詳細は略す)。

決定的だったのはとある通販サイトで注文しようとしたとき。最後の最後でうまくいかない。何回やってもエラーが出る。それでクレームのメールを入れたところ返信は「当サイトはOS10.15以降に対応しています」

がーん

そうなんです。私の今使ってるMacBookProは2019年に買ったものでそんなに古いわけではないんだけどOSのアップグレードをさぼっていて「Mojave」(10.14.5)のままなのだ。それって、もはや見放される対象になるのか。どうでもいいと思われるのか。くやしいいいっ。

それで、アップグレードすると決心してからちょっとばたばたする日が続き、一段落したので決行したのが一昨日の夜。最新のOS「Ventura」が無事インストールできた(けっこう時間かかった)。だが、その後の「アップグレードにまつわる諸症状」がいろいろあって、昨日はその対応で終わってしまった。疲れた。でも、気分一新。すっきりした! これからはこまめにアップグレードすることにする。

でも、ずっと前から使っていたFTPソフト「Fetch」の日本語版はもうなくなっていたことを知る。これを機にcyberduckを使うことにした。
Officeは古いやつだったのでOSが新しくなると使えなくなったが、もともとWordもExcelも自分ではほとんど使わず、送られてきたものを開くだけだったので、それならPagesやNumbersでいけるらしい。などと知る。
まあいろいろ、どんどん変わるんだなと思う。でも、昔はOSが変わるってもっと大変なことだったように思う。いまはすべてカジュアル化しているとも思う。

ちなみに「Mojave」は「モハベ」と読むことを、これを機にはじめて知ったのである。
私はずっと、ひそかに、心の中で「もじゃべ」と読んでいた。別に人前で声に出して読む機会もなかったのでそのまま過ごしていたんだけど、知ることができたのは良かったのかどうなのか。なんとなく毛深いおっさんをいつもイメージしていた。このおっさんとももう別れてしまった。達者でな。

見学会に行ってきた

うちの近所で進められている団地建て替え計画。建物が完成して盛んに宣伝してるところだが、その見学会に昨日行ってきた。もっとも今回は申し込みはせず、「見るだけ」。

総戸数500戸超のうち400戸程度はすでに元の居住者や近く解体予定住居の住人の優先申込ですでに埋まっていて、残りはほとんどが1Rや1DK。狭くて家賃高い。少々高くなるのは想定内だが、どうみても学生さんか単身赴任用という感じだし、2 DK以上はほんの少しなのでたぶん抽選ではずれるだろう。次回でいいわ、ということにした。

いま住んでるところは築50年の古い団地だからそれと比べたらあたりまえだろうけど、いやあ、やっぱり設備がいいわ。ビルトインコンロ付き、エアコン1台付き、オートドアロックシステム、無線LAN機能搭載給湯リモコン、宅配ボックスあり。バリアフリー当然、浴室やトイレ、広いバルコニーはずぼらな私でも掃除がしやすそう。窓ガラスは複層ガラスとかいう、結露しにくいやつらしい。おお、冬の朝の日課となっている結露処理から逃れられたらどんだけうれしいか! だいたい今は洗濯機置き場がなくてぶつぶつ言ってるのだからもう、話にならないレベルなんである。もちろんエレベーターがあるので何階があたっても平気だし(古いエレベーターなしの団地だと4階や5階は空室だらけだったりする。私もいまさらそれはごめんこうむりたい)。

途中、ご高齢のカップルと一緒になったが、奥さん(たぶん)のほうが「畳の部屋がないのよね・・・」とつぶやいていた。

そうだ。そういえば、畳だけじゃなく・・・襖も障子も全然なかった! てことは、ぼろぼろになった襖を見ながら「張り替えなくちゃ」「まだいいか」と毎日煩悶することもなくなるわけだ! 業者さんに張り替えをしてもらうとなると枚数が多いからけっこうな出費だし、自分でやると腰が痛いし、そういう悩みから解放される。これは大きい。でも、そうか・・・畳屋さんも襖屋さんも失業じゃないですか、これは。いや、そんなことないよね、襖屋さんはきっと、建具全般やってるだろうからだいじょうぶだよね(何を心配してるんだ)。

10階から。池に面した部屋はいいけど、部屋によるよね、眺望は。


通路に面したドアの前が若干広くなってるのもいいなと思った。ついでにもうちょっと広くて門扉がついてグリーンでも置けたらたら高級マンションぽいけどそこまで望むまいて。

というわけで見学会はけっこうおもしろかったわけだが、後になってふと思い出したのは、以前、ここの団地が春になると満開の桜に囲まれていたことだ。11階建の棟の足元にふわりふわりと霞がたなびくように、淡いピンクの花が満開だった様子をいまでも覚えている。写真にも何回も撮った。

新しい建物のまわりにはほんのちょっとだけ細い若木が植えられていたが、あれだけかな。やっぱり木があるとなんとなくいい感じなんだけど・・・今住んでるところは春はスミレ、夏はへんてこなキノコがにょきにょき、秋になるとどんぐりもごろごろ転がっててこけそうになるのも一興なわけだが、これ、よく見たらほとんど「土」が見えない。うーん、ちょっと、あれかも。

本歌取り

Twitterの朝ドラ界隈ではヒロインの彼氏・貴司が作った短歌「君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた」が万葉集の狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の歌「君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも」の本歌取りであることが明かされた昨日から、俵万智がそのことに気づけず悔しがったり岩波書店のアカが「うちふるえました」とツイートするなどちょっとした騒ぎになっているが、この人の名前(狭野茅上 娘子とも書くようだ)を覚えるのに丸一日かかってしまった。そしてまた忘れるだろう。なので、ここに書いておこう。

ともあれ、本歌取りというのはレイヤー構造であるわけなのだなあと思う。元の歌は激しい情念のこもった歌だが、貴司の歌は穏やかで、距離をおいてみつめている風である。だが、本歌取りだとわかった人には元歌の情念の世界が透けてみえる、みえてほしいと作者は願っているということか。
掛詞とかもそのひとつなのだろうけど、短い中にも何重にも世界が重なり、複雑な景色をみることができる、そのための技法が長い間に蓄積されてとんでもないことになっているようだ。これはやはり近づかないほうがよさそうだ。

狭野弟上娘子は当時の女官だったそうだ。女官ってどんな服を着ていたのかなと思い、ぐぐって出てきた画像を参考にした。チマチョゴリと似ているね。