月別アーカイブ: 2023年3月

脱皮した

昨日の夜、パジャマのズボンをはこうとしたらなんかひっかかった。あっ、と思って見たら左足の親指の隣の指、人差さないけど人差し指といわれる指の爪がはがれそうになってる。うわ、たいへんだと思い、そうっと椅子に腰掛け、よくよく見たらなんと、次の爪ができてるじゃないか。はがれそうになってる爪の下に。

なもんで、はがれそうになってた爪を遠慮なくはがした。
いやー、すごい。まじまじ見る。
生まれたばかりといった感じのたよりない、新しい爪がそこにあった。
生えるんや・・・。

その指は何ヵ月か前、たぶん、ちょっときつい靴をはいて歩き回ったせいか、気づいたら真っ黒になっていたのだ。なんだこりゃと思って検索したらどうやら「爪下血腫」というやつらしい。爪が黒くなったのではなく、爪の下に血腫ができていると。
別に痛くないし、ほっといた。
最近、だんだんその爪がまだらに白くなってきてた。つまり血腫が消えつつあった。
あ、そういえば爪を切ろうとしたとき、なんだかふわっと・・・浮いているような感じがしたので、さわらないほうがいいと思った。いや、そもそも爪が伸びてないことに気づき、切らずに終わった。
すでに爪は死んでいたのか。

サッカーやってた人などはこういうのを何度も経験しているそうだ。

今年の桜

毎年桜は咲いて、毎年人は花見に行く。よく飽きないものだ。
と自分でも思うが、やはり今年も人並みにカメラ持って歩いた。近くだけど。
ここは駅前を過ぎて、ちょっと歩いたところ。陸橋の両脇に桜が植っていて「桜のトンネル」とかいわれる。

ここの桜はみんな、株立っていうのかな、根本に近いところから分かれてる。それで、低いところから花がたくさんあるし、「トンネル」の天井が低い。トンネルを抜けると、ちょっとおおげさだけど「明るい」と感じる。いや、実際、遠目に見るとこんなふうにすっぽりおおわれてるし。(下)

桜はやはり枝がぐにゃ〜んと下がってのたくってるようなのがかっこいいよね。まあ好みかな。幹がまっすぐで箒を立てたように枝を広げるのがかっこいいと思う人もいそうだ。
ここの木は下のほうを見るとまるで「やまたのおろち」みたいで若干不気味な感じもする。今年は、なんでか知らないけど黒い網でおおわれていて、いっそう不気味だった。

で、のたくった枝のすきまから向こうを見ると人が立ってる。写真を撮って気づいたら向こうもスマホを向けているじゃないか。
向こうからこちらは、どんなふうに見えたのかな。

つくしは伸びるが

昨日、いいお天気なので公園に行こうと思い、駅前の交差点のそばの法面を見たら数日前は確かに、いくら目をこらしても(最近視力落ちてるので)なかったと思えるつくしがいっぱいに出ていた。そこは毎年、つくしが出るんだけど、たいていタイミングをはずしていて、早すぎたり、かと思うともうスギナの陰にちょっと見えるだけだったりする。今年はまあまあよかった。

それにしても、大江健三郎も死んでしまったしなあと思う。

え、ヤマシタさんって大江健三郎に影響されたことあるんですか? そんな風には見えませんけど?! 書くもの、全然ちがいますよね?!と言われそうだ。うるさいわ。

私もね。こう見えてもね。と、ここは姿勢を正して熱っぽく語りたいところだが、如何せん・・・。没後にいろいろ出た記事で「『同時代ゲーム』はコレコレのテーマをこうこうしてこうした作品で」とか書かれていると「そ、そうだっけ・・・うん、そうだったような気がするなあ・・・」とあたふたするばかり。たぶん、私は何もわかってない。
わかってないけど、やはり大江の作品には惹かれた。難解と言われる文体も私にはただかっこよく、どうしたらこんな文章が書けるのだろうと思った。最初はとっつきにくくても、一旦物語世界に入り込むとおもしろくて夢中になったし。

最近はあのころに比べると読書量も減っているし(←「あのころ」も大したことなかったぞ)、大江も晩年の作品は読んでない。
でも、大江について語られた記事(当然、文学や哲学の、その道の第一人者と目される研究者による)を読むだけでも、なんだか背筋が伸びるような、こんなことじゃいかんと叱咤されているような気持ちになる。大江健三郎だけでなく、私が憧れていた「先輩」たちの世界を感じるから。憧れですけどね、単なる憧れ。

しかしまあ、いつの間にかこんなに年月が経って。
かつて聞きにいった講演会ではユーモアたっぷりに語っていたあの作家が「老衰」で亡くなっただなんて、そんなことがあろうかと思うが、あるんだなあ。さびしいもんだ。

まあ最初に書いたように私が大江のことなんか口にしても笑われるだけだろうから、これからも知らん顔しておきたい。
そして、ひそかに、知らん顔して作品を読み返そうと思う。

映画観てきた

おととい、「フェイブルマンズ」を観てきた。恥ずかしながらスピルバーグ好きだから。はじめて「おもしろい!」と思った映画が「未知との遭遇」だったし。

え、それ以前はおもしろいと思わなかったの?と聞かれそうだけど、そうなのよ。「未知との遭遇」のとき、すでに子供でもなんでもなかったけど、そして私の若い頃は男の子とデートといえば、無難に「映画」だった(今はどうなんだろ?)のだけど、特に・・・あ、そうか。その場合はだいたい男子から「○○観に行かない?」と提案されて、なんとなく特に反対するでもなく一緒に観た、という感じだったと思う。主体性ないんです、私。スピルバーグがこの世にいなかったらずっと、そういう状態が続いていたかも。人に勧められて観て、まあこんなもんかな・・・よくわからんな・・・みたいな。

なので、スピルバーグといえば私の恩人。その、恩人のスピルバーグの作品を最近観ていなかったので寂しいと思ってたところなんである。

「フェイブルマンズ」はスピルバーグの自伝的な物語だそうだ。その通り、主人公が子供の頃に映画に魅せられ、自分で映画を作り始め、どんどんのめりこみ、一方で家庭でも学校でもいろいろあったけど、ついに念願の映画の道を本格的に歩み始めるというところまでが描かれる(荒っぽい紹介)。

映画にくわしい人はこういう映画を観たらたぶん、もう、いくらでも語り出すだろう。あの映画は、とか、あのシーンの意味は、とか。
正直私はそのへんはちゃんとわかってない。私的にはクローゼットでフィルムを見せられたママの表情が次第に変わり、やがてはらはらと涙するシーンがクライマックスだ。
バート(パパ)もベニー(パパの親友)も、そしてママもみんないい人で、魅力的で、それでもしんどいことは起きてしまうのだ。そしてママが言うように「起こったことにはすべて意味があるのだ」。

あ、下の絵は全然似てないですが、気にしないでください。