つくしは伸びるが

昨日、いいお天気なので公園に行こうと思い、駅前の交差点のそばの法面を見たら数日前は確かに、いくら目をこらしても(最近視力落ちてるので)なかったと思えるつくしがいっぱいに出ていた。そこは毎年、つくしが出るんだけど、たいていタイミングをはずしていて、早すぎたり、かと思うともうスギナの陰にちょっと見えるだけだったりする。今年はまあまあよかった。

それにしても、大江健三郎も死んでしまったしなあと思う。

え、ヤマシタさんって大江健三郎に影響されたことあるんですか? そんな風には見えませんけど?! 書くもの、全然ちがいますよね?!と言われそうだ。うるさいわ。

私もね。こう見えてもね。と、ここは姿勢を正して熱っぽく語りたいところだが、如何せん・・・。没後にいろいろ出た記事で「『同時代ゲーム』はコレコレのテーマをこうこうしてこうした作品で」とか書かれていると「そ、そうだっけ・・・うん、そうだったような気がするなあ・・・」とあたふたするばかり。たぶん、私は何もわかってない。
わかってないけど、やはり大江の作品には惹かれた。難解と言われる文体も私にはただかっこよく、どうしたらこんな文章が書けるのだろうと思った。最初はとっつきにくくても、一旦物語世界に入り込むとおもしろくて夢中になったし。

最近はあのころに比べると読書量も減っているし(←「あのころ」も大したことなかったぞ)、大江も晩年の作品は読んでない。
でも、大江について語られた記事(当然、文学や哲学の、その道の第一人者と目される研究者による)を読むだけでも、なんだか背筋が伸びるような、こんなことじゃいかんと叱咤されているような気持ちになる。大江健三郎だけでなく、私が憧れていた「先輩」たちの世界を感じるから。憧れですけどね、単なる憧れ。

しかしまあ、いつの間にかこんなに年月が経って。
かつて聞きにいった講演会ではユーモアたっぷりに語っていたあの作家が「老衰」で亡くなっただなんて、そんなことがあろうかと思うが、あるんだなあ。さびしいもんだ。

まあ最初に書いたように私が大江のことなんか口にしても笑われるだけだろうから、これからも知らん顔しておきたい。
そして、ひそかに、知らん顔して作品を読み返そうと思う。

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