シーシー

前から新聞(紙の)をだらだらと長時間かけて読むのが大好きなんですが、最近はわからない言葉があるとスマホで調べたり、知ってそうな人にスマホで聞いたりしながら読むのでさらに時間がかかります。朝刊と夕刊読むだけで人生が終わりそう。休刊だとほっとしたり。

昨日は、食べたあとに「シーシー(シーハーのほうが一般的?)する」というのを読んで「ちょっと待て。今までなんとなく読み過ごしてきたけど、シーシーするってどういうことなんだろ?」と思い、「知ってそうな人」に聞いて、だいたいわかりました。

この間は「痰を吐くってどうするんだろう?」と思って検索して説明読んでもあまりよくわかりませんでした(とてもできそうに思えない)。

そのうち「知ってそうな人」に聞こうと思います。

映画観てきた

といっても先月末。なんだかまたばたばたしていて遅くなった。ばたばたしてると「わー!」と叫び出したくなって気分転換に映画でも観るかと思っていくわけだけど。

観たのは「敵」。ひとことでいうと、あまりおもしろくなかった。これなら観る前から予想ついてたわ、と言いたくなった。予想を覆してくれる何かを期待していったのに。

それ以上になんだかもやもやと、いやな感じがあった。
原作は筒井康隆で、私は読んでいない。映画と原作は別物、と考えるべきだが、それでもたぶん、あの映画には筒井康隆の発想や好みが盛り込まれているだろう。それが、いまの私には「いやな感じ」のするものなのだ。今は昔の、昭和全盛期の文化・思想・風俗あれこれ。私は若くて、「こんなことはおかしい」とどこかで思いながら、一方で「これが大人の世界というものだ」と、まじめにその世界の作法を覚えようとさえ思っていた。なんとはずかしい時代だ、今となっては。忘れたいそんな時代を思い出させる。

むかし、夢中になった吉行淳之介の作品にもそういうところはある。
とはいえ、吉行の作品のいくつかはそんなことを考慮しても名作だろうし、文体の完成度、美しさはもろもろの雑念、外野の声を取るに足りないものとするだろう。筒井康隆だって一部の純文学ぽいのはあまり好きじゃないが、稀有な作家であることは間違いない。昭和なものをああだこうだとけなしたくなるのは単に、私自身が、昭和がなつかしいなどとは言いたくもない昭和のおばはんだからだ。

母の足

この間から数日間、ひさしぶりに湯たんぽを出して使ってみた。
ある日、「待てよ。去年もその前もその前も、湯たんぽなんて使ってなかったのに、今年はよっぽど寒いのか? そうでもないと思うけど・・・??」と急にあやしむヤマシタ。
そして、はっと気づいた。毎年冬になると使ってたニトリの敷きパッド。今年は出すのを忘れていたのだった。そうだ! あれだ! 押入れから引っ張り出して使ってみたらあったかい。湯たんぽいらんやん! しかし、なんでそんなこと忘れるのかなあ。われながら。
それに、なんだこれ、ニトリの広告かい。

で、思い出したのが、こどもの頃のこと。
うちの母はいつも足があたたかだった。
冬の夜、私や妹たちが布団に入っていると、母が布団の中に入ってきて・・・えーっと、どういうシチュエーションだったかなあ。まあいいや。
細かなことは忘れたけど、とにかく、母の足が私たちの足よりずっとあたたかいのだ。それで、私たち子供の間に寝て、さわらせてくれるのだ。ほんとに、びっくりするくらい、ほこほこにあたたかいのだ。
「おかあちゃんの足、ぬくい!」
「そやろ。おこた(こたつのこと)みたいやろ」
「ほんまや!」
「足おこたや!」
私や妹たちはけらけら笑いながらみんなで母の足に自分の足をくっつけた。
あれは幸せな時間だった。

大人になると自分の足もあたたかくなるのかなと思ったが、そうはならず、私は足も手も冷たい。病院にいるときは看護師さんたちに「手、冷たいですね!」とよくびっくりされた(看護師さんたちはなぜかみんな手があたたかかった)。冬になると足にしもやけができるのはしょっちゅう。4年前からは手にしもやけができるようになった。血行が悪いのかな。

なので、いまは「おかあちゃんの足おこた」もないのでニトリの敷きパッドがたよりなんです。また宣伝してしまったよ。

まあうちの近所のサザンカでも見てください。

キイロテントウ

エアコンの室外機の上に黄色いてんとう虫がいたので撮った。

ネットで画像検索すると、つやつやしたきれいなキイロテントウの写真がいっぱい。でも、この子は背中にゴミがいくつもついてて、どこかやつれた風情。これまで苦難に満ちた生活をしてきたのかもしれない。単にうちのベランダが汚いのかもしれないが。

カメラを向けると「え、いいんですかい? おいらでも」という顔をしてました。いいんだよ。

苔ちゃん

この間、高校の学年同窓会のイベントがあった。2年に1回、ホテルとかの会場で同窓会はしてるんだけど、それとは別に毎年1月にちょっとしたイベントがある。そのときに一昨年からは作品展もやるようになった。私は毎回出している(相変わらずのおっちょこちょいで)。

だれでも出したい人は出せる、でも1日限りの作品展。絵や写真が趣味の人はけっこういるので、毎年にぎやかな展示となる。作者が自分の作品について語るコーナーもあって、恥ずかしがりの私もちょこっとしゃべったり。まあそんなに緊張する場じゃないけどね。

今年は苔の写真を3点出した。一つはたぶん、このブログで出したことあるような。もうひとつもSNSで出したような。残るひとつは初お披露目。じゃじゃーん。

撮ってからすっかり忘れていた写真。なんかこの苔、ひとりだけにゅっと出てて、「ん? どうしたん、苔ちゃん?!」と言いたくなりませんか。ならなかったらすいません。

おみくじがえらそう

あっという間に日が経ってるわけですが、今年はひさしぶりに徒歩で近くのT神社に初詣に行ってきました。1月3日。しかもおみくじなんか買ってみました。そしたら「吉」だったのですが、なんかえらそうなんですよ、文章が。
(画像をクリックしたら大きくなるので読みやすくなりますよ)


「特に男女の間をつつしめ」とか「よく見定めて進め」とか。いや、なんでそんなえらそうに命令するのよ…と思ってよく考えたら、これは「べし」を現代語風に置き換えたってことか。

「べし」の意味はむかし習いましたよね。古文の時間に。といっても忘れてたけど、いまネットで調べたら思い出した。「べし」には「推量・意志・可能・命令」の意味があるんでした。ネットで調べるとそのほかに「当然」とか「適当」の意味があるとか、サイトによって全部で6つの意味があるとか、いや7つだとか割とそのへんは定まってないみたいですが、ともかく、この「命令」の「べし」を現代風に、命令形にしちゃったのではないだろうか。違うかな。

そういえば昔のおみくじはどうだっけ、と探してみた。
昔といっても江戸時代とかじゃないですよ。私もそんなに長生きしてませんから。
一時期、毎年おみくじを買ってて、おもしろいので残していたはず…と思ってあちこち探したけど、どうやら処分してしまったらしく見当たらない。惜しいことしたな。でも、一枚だけあった。それも同じT神社。98年のものです。

どうです。なかなか趣があるじゃないですか。イラストもいい味だしてますよね。紙が薄くてぺらぺらなのもいいですね。おみくじがコピー用紙みたいだったり光沢紙だったりしたらちょっとしらけると思います。

そして、「べし」のオンパレードです。このうち、「うりかい共によくよく念入れるべし」が今のおみくじだと「念入れろ」になるのでしょうか。「急ぐべからず」は「急ぐな」になるんでしょうか。きつい。お正月から怒らなくてもいいじゃないですか。私が何をしたっていうんですか。昔のおみくじはやさしかった…いや、でも古いほうのおみくじにも「先祖のまつり怠るな」が。やっぱり怒られてしまった。結局よくわかりません。

ついでに言うと、以前はこの神社、おみくじを買うときは筒形の入れ物から番号のかいてある細い棒を自分で出して申請する方式だったと思うんですが、今年行ったら箱の中に木でできた玉がごろごろ入ってて、その中から「どれでもとってください」という方式に変わってました(番号で申請するのは同じですが)。しかもそこに書いてあった番号が算用数字でした。風情がないわー。

東京国際フォーラム

「はたらく細胞」に出て来たので「え、ここは…!」とびっくり、そういえばずいぶん前にあそこに行って写真撮ったことあるなと思い出し、フォルダから引っ張り出してみた。東京国際フォーラム。
天井のあばら骨みたいなかたち(映画ではこの部分が動いていた)がおもしろい建物。この渡り廊下で「そっちは気管支だよ」と言われてたっけ。

映画観てきた、昨日

昨日は最寄りのシネコンで「はたらく細胞」を観てきた。おもしろかったー。がはがは笑ってしまったので隣の親子連れに怪しまれたかも(笑)

白血球とか血小板とかの言葉は入院中にさんざん聞いた言葉だったし、それもあって興味深かった。ああ、そういえば。
血液検査の結果をくわしく書いたものを見ながらそのつどドクターが説明するんだけど、白血球(WBC)はわかっても、その中に好中球とか単球とかリンパ球とか種類があるんだよね。それで、表を見ながら「これは何なんですか」とTドクターに聞くと「白血球の種類です」と言う。それで「どう違うんですか」と聞くと「それはね、むずかしいです。ふふ、ふふふ」とTドクター。なんなんですか、その「ふふ、ふふふ」は。いいですよ、もう。

「はたらく細胞」はアニメでも放映されたらしいが、やっぱり映画とはだいぶ違うみたい。シネコンからの帰りのシャトルバスで近くに座った若い男子二人のうち一人が盛んに語っていたのだが、アニメでは体内の話だけで、一話完結の短い話になっている(原作通り)けど、映画ではかなりアレンジされていて、結果的には想像以上におもしろかったらしく、「おれ、なめてたわ」と。
そういうことらしいです。

紅白で

大晦日でよかったのは御座候を食べたことではなく、紅白でこの曲に出会えたことだった。かけっぱなしにしてネット見たりしていたが、この曲が聞こえてきて「え、ちょっと待って」て感じでテレビに向き合った。それから何回もしつこく聴いている。小松菜奈主演のこのMVはすてきだけど、歌詞がちょっと聞き取りにくいかな。

食欲はどこへいく

11月ごろはまだあまり食欲がなかった。ないこともないのだけど、何を食べたらいいのかよくわからないというか。なんせ病院食を連日食べている(実際は半分も食べられない)うち、もうどうでもよくなって感覚がおかしくなっていたのじゃないかと思う。病院食には栄養はあっても夢も希望も明日もないのだから。

それで、入院と入院の間の短い時期も、急に自由に食べて良いといわれても途方に暮れてしまうわけだ。通常ならコーヒーとパンなのだけど、それを頭の中に思い描いてもぴんとこない。なんか違う。いろいろイメージしてみて、これならいけるかと思ったのが「卵かけごはん」。やってみたらなかなかよい。以来、毎朝しばらく考えては結局卵かけごはんを食べていた。この時期を「レベル1」とする。

その後、一応、予定された治療をすべて終え(一部の治療についてはできなかったのだけど、まあよしとする)めでたくほんとの退院。それでも相変わらず卵かけごはんにしていたが、ある日ふとパンを食べたくなり、フランスパンを買って来て翌朝の朝食に。おいしい! パンが食べられるようになった! 
しばらくするとコーヒーも飲めるようになった。
だいたい、コーヒーが飲めるかどうかが私の場合食欲のバロメーターになってたりするわけで、感無量。ここにきて「レベル2」に達した感。いや、元に戻ったのだ。
元に戻ったらそれでいいので、こういうことはそれより先に「進む」必要は全然ないと思うんだけど、その後もレベルアップがとまらない。
なぜかカップ麺が食べたくて仕方ない。やばい。
カップ麺なんかずいぶん長い間食べていない。きらいじゃないけど、私にとってはけっこう食べるのにパワーを必要とするものなのだ。カップ麺の持つパワーに立ち向かうにはにゅうめんからきつねうどん、ざるそば等を食べる時のパワーではだめなのだ。一回食べると半年くらいは充電期間をおかないと食べられないような気が。なのになぜか、今はいけそうな気がする。軽々とカップ麺に立ち向かえそうな気がしている。どん兵衛や赤いきつねどころか、ペヤングでもラ王でもどんと来い!な気分。これはひょっとして、私の食欲は「レベル3」に達したか。自分では認識していなかっただけで実はうちに秘めたる食欲は、私ってけっこうすごいんです、だったりするのか。いや、でも、食欲に直結する「体重」という問題があるので、ここは慎重にせねばっ。

さらに。
去年の大晦日。突然「あんこが食べたい!」という思いがむらむらとわいてきて、駅構内の御座候の店で初めて購入した。徒歩圏内の店だが今まで一度も買ったことなかったのに。4個。いや、いっぺんに食べませんけど。しかし、「これはひょっとしてレベル4か?」と、買って帰った御座候の包みをしみじみと眺める私がいた。

というわけであけましておめでとうございます。

大晦日の御座候の店はちょうどよいくらいの行列ができていて、順番が回ってくるまでにおにいさんが焼いている様子をゆっくり見ることができた。あんがのっかったほうの皮をさかさまにしてあんがのってないほうにぽん、と乗せる。そして、左手でちょい、ちょいと軽くたたくように整えるおにいさんの白くて細くて長くて骨ばった指先がきれいだなと思ったのであった。

<追記>
イラスト差し替えました。あとから気づいたのですが、このお兄さんは腰をかなり曲げて作業するのです。背が高すぎるのでしょうか。近眼で、顔を近づけないとあんこが見えにくいのでしょうか。よくわかりませんが、それで「ちょい、ちょい」とする動きがよけい独特にみえるのかもしれません。