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東京行ってきた

昨日は日帰りで東京に行ってきた。直接の目的は三康図書館。私の個人誌を展示してくれてるという世にも奇特なところで、2月から始まったその展示も今月29日までということで行ってきた。
せっかくなので横浜に住んでる大学時代の友達Sさんと会う約束をしてたら、そのわれわれを高校時代の同級生(最近、同い年の人を同級生と呼ぶことも多いようだけど、この場合は正真正銘、同じクラスの、あ、クラスメイトといえばいいのか? いや、スクールメイツみたいでいやだな・・・えっと、純正同級生でいいか?)(カッコ書きが長い)のN君が案内してくれるというので、3人で行った。高校のプチ同窓会と大学のプチ同窓会が一体となったプチプチ同窓会の爆誕。

明治時代にできた「大橋図書館」の流れをくむ三康図書館は古い資料が豊富にあるところで、希望者は書庫に入ることができ、解説も聞くことができる。われわれも司書のSさんに案内してもらったのだが、これがすごくおもしろかった。

ずらりと棚が並んだ迷宮のような書庫には近現代の雑誌から教科書、参考書まで硬軟とり混ぜびっしり。大学の卒論を書く時に中之島図書館で毎日のように閲覧した「改造」もあった。
同人誌も、関西で有名な「バイキング」や「アマゾン」はもちろん、「**文芸」と名のついた全国各地の同人誌があり、その中に私の個人誌も紛れ込んでいた、もとい含まれていたわけですね。
むかし某文学学校に通ってたころは同人誌が盛んだったころで、「文學界」はもちろん、全国紙の夕刊に同人誌評のコーナーがあったりした。そこから芥川賞候補が生まれたりもした。今はネットが中心だろうけど、文学フリマがにぎわっているところを見ると、紙媒体の同人誌も健在と思われる。なんといっても「本を作る」楽しさがあるし、電子本の同人誌、個人誌という手もあるから、かたちが変わっただけ、多様化しただけなのだ(出た、多様化!)。

司書のSさんはレコードには裏面もある(裏面も表面も聴ける)ことを知らなかったというまだ若い人だが博識かつ研究熱心で多方面にアンテナを張っているらしき軽みも持ち合わせた人。解説がうまいので、つい、大学でこういう分野の「歴史」をやっとけばよかったなーと今頃思う(私も友達Sさんも国史研究室にいた)(あまり出来のいい学生ではなかった。私は)。

ていうか、歴史って特別なものではないのだ。政治というものがふつうの人の生活の中にあって、政治と関係なく生活することは実際にはあり得ないように、歴史も生活の中にある。いや、生活することは歴史をつくっていることであり、そして人間は時折たちどまっては歴史を振り返ったり記録したりしないではおれないものなのだ。歴史に興味を持ったりもっと知りたいと思うことはぜんぜん普通のことなのだ。きっと。

三康図書館入口

すぐそばに東京タワーがある。それにしても昨日は良いお天気だった。

うちの子たちが・・・

世の中おもしろいことはあるもので、私がむかし発行していた個人誌「郵送小説」、その後継誌「みっどないと」が今、東京の三康図書館というところに展示されている。

はあ? どういうこと? って思いますよね。さんこうとしょかん。東京の図書館。はあ。そこに・・・なんで? 意味わからんねんけど、と。

三康図書館は「一般公開している私立図書館で、戦前に発行された資料を多く所蔵していることに特徴がありますが、なかには戦後発行の出版物もありまして、そのひとつが文芸同人誌コレクション」なのだそうです(担当のSさんのメールを引用させていただきました)。
そのコレクションの中に「郵送小説」「みっどないと」も含まれていたそうなんです。

同館ではコレクションから定期的に資料を紹介しているそうで、次回、2月5日から3月29日の展示には「郵送小説」「みっどないと」を紹介したいのでチラシに画像を使用したいのですが・・・という内容のメールが先月末に届いたのであった。

かなりびっくりしたけど、もちろんオッケーいたしました。それからじわじわと楽しい気分がわいてきた。おもしろい。新年からおもしろすぎる! 

そして昨日、展示風景を撮った写真がSさんから送られてきた。三康図書館のサイトにも案内が出てる。ひゃー、ほんとだ。
とてもかっこよく展示されて、うちの子たちがすごく立派に見える! みんな喜んでる。いや、何も言わないし、しっぽを振ってるわけもないが私にはわかるさ。だって、この子たちの産みの親だもん!

あ、写真はSさんから送られてきたのをそのまま使ったけど、よかったかな? いいですよね? すいません、あの、三康図書館の宣伝しておきますので。

みなさん、三康図書館にぜひ足をお運びください。すばらしい図書館ですよ! 東京に行ったら絶対行くべし! そして、閲覧室に行って「郵送小説」と「みっどないと」を見てください・・・・いや、それ自分の宣伝やん。ばれたか。

三康図書館
https://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp

つくしは伸びるが

昨日、いいお天気なので公園に行こうと思い、駅前の交差点のそばの法面を見たら数日前は確かに、いくら目をこらしても(最近視力落ちてるので)なかったと思えるつくしがいっぱいに出ていた。そこは毎年、つくしが出るんだけど、たいていタイミングをはずしていて、早すぎたり、かと思うともうスギナの陰にちょっと見えるだけだったりする。今年はまあまあよかった。

それにしても、大江健三郎も死んでしまったしなあと思う。

え、ヤマシタさんって大江健三郎に影響されたことあるんですか? そんな風には見えませんけど?! 書くもの、全然ちがいますよね?!と言われそうだ。うるさいわ。

私もね。こう見えてもね。と、ここは姿勢を正して熱っぽく語りたいところだが、如何せん・・・。没後にいろいろ出た記事で「『同時代ゲーム』はコレコレのテーマをこうこうしてこうした作品で」とか書かれていると「そ、そうだっけ・・・うん、そうだったような気がするなあ・・・」とあたふたするばかり。たぶん、私は何もわかってない。
わかってないけど、やはり大江の作品には惹かれた。難解と言われる文体も私にはただかっこよく、どうしたらこんな文章が書けるのだろうと思った。最初はとっつきにくくても、一旦物語世界に入り込むとおもしろくて夢中になったし。

最近はあのころに比べると読書量も減っているし(←「あのころ」も大したことなかったぞ)、大江も晩年の作品は読んでない。
でも、大江について語られた記事(当然、文学や哲学の、その道の第一人者と目される研究者による)を読むだけでも、なんだか背筋が伸びるような、こんなことじゃいかんと叱咤されているような気持ちになる。大江健三郎だけでなく、私が憧れていた「先輩」たちの世界を感じるから。憧れですけどね、単なる憧れ。

しかしまあ、いつの間にかこんなに年月が経って。
かつて聞きにいった講演会ではユーモアたっぷりに語っていたあの作家が「老衰」で亡くなっただなんて、そんなことがあろうかと思うが、あるんだなあ。さびしいもんだ。

まあ最初に書いたように私が大江のことなんか口にしても笑われるだけだろうから、これからも知らん顔しておきたい。
そして、ひそかに、知らん顔して作品を読み返そうと思う。

大男

きっかけが何だったかは省略するとして、最近「飢餓海峡」を読んだ。水上勉の代表作のひとつであるあの長編小説。映画化もされたが私は見ていない。今回、小説だけ読んだ。執筆されたのは昭和37年(週刊朝日に連載された時期。後加筆され、本として出版された)だが、描かれているのは昭和22年、そしてその10年後。

大型台風で青函連絡船が沈没、死者・不明者あわせて500人以上という大惨事となる。おびただしい死体が打ち上げられ「海岸の悲惨は眼をおおうものがあった。」
ところが、乗船名簿と照らしわせると数があわない。死体の数がふたつ多い・・・というところから物語が始まる。そう聞くと思いつくのはチェスタトンの「折れた剣」だろう。その通り、そこに隠された(隠そうとした)企みがあったというわけなのだが、かなり早い時点であやしいと思われる人物がいて、それが「大男」なのだ。

「その男は大男でね。六尺ちかい体格で」とか「無精髭を生やした六尺ちかい大男が」とか「髭男で六尺ちかい大男という目につきやすい犬飼多吉」みたいに何度も何度も出てくる。そして「ああ、いました、いました!」「やはりそうですか!」みたいに、それがかなりの「決め手」になっているのだ。

六尺というと181〜182センチくらい。ちなみに最近売れっ子の俳優でいうと鈴木亮平、豊川悦司が186センチ、竹内涼真が185センチ、小栗旬、岡田将生、斎藤工が184センチ、坂口健太郎、松坂桃李、福士蒼汰が183センチと軒並み180センチ超え。いやあ日本人の身長も伸びたものだと思うが、彼らを「大男」と言おうとは思わないよね。実際に間近に見たら、私なんかからみると30センチ以上の差があるわけで、「見上げる」だろうけど、そんなに珍しいほどでもないので、どこか尋常ではない雰囲気を持つ「大男」とは・・・。隔世の感。
もっとも、「飢餓海峡」のその男は体の幅もあったようで「力士のような」とも書かれているけど。発見された靴跡が「十二文」とか。これは単純計算すると「28.8cm」だそうだ。
ちなみに映画でこの「大男」を演じた三國連太郎は178センチで、別に「力士」みたいでもない。

60歳くらいの男性を説明するのに「かくしゃくとした」という表現も何度も出てきて、これも「ふーん・・・」だったが、やっぱり昔は早く老けたんだろうか。
ある箇所では「肉の落ちた歯ぐきにはめこんだ総入歯が、喋るときに音をたてるのも、激しく削げ落ちたように凹んでみえる両頬も、」と、いかにも年寄り臭い描写があり、ページをめくると「五十八歳という年齢を象徴していたといえたかもしれない」と続くので思いっきりこけた。58歳。還暦にもなってないじゃないですか。ブラピが来年還暦。それはもういいですか。いや、もう隔世の感PART2。

と、なんだかんだ書いたけど、この時代への興味も含めて、読み物としてはやはり面白い。読み終わって、「あれ?結局あの男はなんだったんだ?」という人物がひとりいるんですけど、たぶん、筆者、伏線回収を忘れたのかなと思います。

ジョゼと虎と魚たち

田辺聖子の短編小説「ジョゼと虎と魚たち」がアニメになって、12月に公開されるという情報がネットで流れ、予告編も見られたりするので気になる。それで図書館で借りてきた。

田辺聖子といえば代表作ということになっている「感傷旅行」をずーっと前に読んだ。その後、新聞に連載されてた「文車日記」を毎回読んではいろいろ感心もしたけど、それ以上は読んでいなかった。読んだらくせになりそうな気がして、自分でちょっと避けていた気配がある。

「ジョゼ」はすでに映画化もされているけど、その時も原作を読もうという気になれなかった。しかし、アニメの予告編を見てるとなんだかかわいい。かわいいけど、多分原作はちょっと違う。もちろん、違って当たり前だ。原作をどう解釈するかは自由だもん。でも、やはりこれはちゃんと読んで、「ふ、アニメもいいけど、原作のこういうところが生かされていないのはちょっと残念だね」などと一発かましてやりたいという不純な動機で借りて、読んだのである。

借りたのはジョゼを含む9編の短編が収められたもので、当初は全部読まなくてもいいだろう、ジョゼだけと思ってたのに結局全部読んだ。おもしろかった。今まで読まないでわかったようなふりして申し訳ありませんでした、田辺先生。なんちゅうか、これはその、おだしのようきいた炊き合わせをゆっくり味わいながら食べている時のような、しみじみとした幸福感があるなあと思いましたわ、読んでて。
もっと早くに読んでおくべきかもしれないけど、負け惜しみをいえば年をとった今だからうん、うんとうなずきたくなるところもある。もちろん、若い時に読んで、年をとってまた読み返すのが理想だろうが、まあ人生、出会いはいつ訪れるかわからないじゃないか。ねえ。

ジョゼはもちろんいいし、ビジュアルがたちまち浮かんでくるところがアニメ向きだなと思うが、印象的だったのはやっぱり「恋の棺」。西條八十の同名の詩が引用されている。引用されているのはその一部だが、同じ部分を下に。

 語りえぬ二人の恋なれば
 われら別るる日にも
 絶えて知るひとの無かるべし。

  (中略)

 われら、山頂の黒き土に巨(おほい)なる穴をうがち、人知れず恋の棺を埋(うづ)めむ。
 おんみは愛撫の白き鸚鵡を贄とせよ、
 われは寂しく默して金雀児(エニシダ)の花を毟らむ。

  (中略)

 語りえぬ二人の恋なれば
 われらが棺の上に草生ふる日にも
 絶えて知るひとの無かるべし。

きゃー。なんだかしびれるよね。

いかんいかん、やっぱり田辺聖子は危険かもしれない。西條八十も読みたくなったじゃないか。

写真はだいぶ前にとある水族館で撮ったもの。ジョゼにちなんで置いてみた。

絵本

ちょっと前の新聞の読書欄で絵本が紹介されていて、そのなかの何冊かを図書館で借りた(すいません、買わなくて)。

借りたうちの1つ「あさになったのでまどをあけますよ」(荒井良二)がすばらしかった。ページをめくるごとに現れる風景が、ほんとうに「朝」! ああ、そうだ、朝って、これだよ、これだよ!な。光があふれて、すがすがしくて、希望に満ちて。最近、柄にもなく早起きして(今朝も6時半に起きた)それなりに朝っていいなあと思ってる私にはぴったりだったのかも。とともに絵本というものの魅力も再発見した気分になった。

昔々の一時期、「月刊絵本」を購読していた。
職場に出入りしていた本屋さんに福音館の「こどものとも」を届けてもらったこともある。これも一時期ではあったけど、姉崎一馬の「はるにれ」が届いた時は感動したっけ。

そういえば、昔は職場に出入りする本屋さんというのがあったもんだ。読書家だった姉がそういった本屋さんを通じて文学全集をどんどん買ってくれたおかげで私もいろいろ読めた。両親が「国民百科事典」を買ったのも、兄が立派な料理全集を買ってきたのも、そういうのだったと思う。

私はというと、こどものとも以外で購入したのは広辞苑と漢和辞典くらい。兄や姉と違ってアルバイト生活だったのであまりお金なかったし。
「ちゃんとした漢和辞典を買うとしたら何がいいですか?」と、当時職場で聞くと「漢和辞典については字源派と大字典派があってな。おれは大字典派やけど、だれだれは字源やねん」とか言われ、迷った末に「大字典」を買った。
広辞苑と大字典は今も持っていて・・・ごくたまに引く。どっちも重い(爆)。

泣ける

姫野カオルコの「彼女は頭が悪いから」を読了。2年余り前にあった東大生グループによる強制わいせつ事件を題材にした小説。もちろん、小説、というかフィクションであって事実そのままではないが、かなりの部分が、われわれがメディアを通じて知ったことほぼ重なる。

出版後、昨年12月に東大で開かれたブックトークには作者本人も登壇したが、東大大学院教授である瀬地山角氏の厳しい批判もあり、えらく紛糾したということだ(文春オンライン2018.12.27)。小説の中では架空の地名や学校名も出てくるようだが、東大は東大としか書いてないし(私ならびびって、微妙に名前を変えるかな)、東大生や関係者にしてみれば、黙ってられない気分になるかも。それは私も読みながらちょっと思った。

でも、私は読んでいてすっかり主人公の美咲に感情移入してしまい、泣けて泣けて仕方なかった。作者の書きたいこともそっちにあると思う。
姫野カオルコはいつも、恋する女の子の心情を書くのがすごくうまい。あの事件の報道を何度読んでも「?」な部分は残るんだけど、小説では、ああそうなんだ、そうなんだと納得させられる。切なすぎる。つばさのやつも、少しでも美咲にひかれたってことは、まったく見込みがない人間じゃないはずなのに、がっかりだよ(さらに感情移入)。
あと、地方と首都圏の差も印象に残った。格差ではなく、差。大学というもののとらえ方が、首都圏ではちょっと特殊な感じ。最近に始まったことでもないけど。

ゆうべはテレビで「フルーツ宅配便」を見てたらこれまたきつい展開で、泣きそうだった。女はいろいろしんどい。

写真は梅田で。マネキン。

がーん

ある小説を読んで、言葉は単にストーリーを進めるための道具ではないと、いまさらながらに痛感する。
世の中にはすでに存在する言葉をたったいまつくりだされたみたいにきらきら輝かせる才能を持った人がいて、時々そういう人に出会う(リアルでも、作品を通じてでも)たびに、がーん!とやられてきた。
でも、そういうのはほんとに「天賦の才」としかいえないもので、真似しようとしてもできない。心底うらやましいと思い、そんなものを持たないまま生まれてきた自分を哀れに思い、そして仕方ないさと開き直る。これの繰り返し。

若いころに出会った、きらきらした才能を持ったひとたち(少なくとも私にはそうみえた)、今頃どうしてるだろうか。まだ書き続けているだろうか。私は、ともかくしつこく書き続けてはいる。開き直りつつ。

写真は夜になる直前の堺の街。