月別アーカイブ: 2022年8月

だまされた

昨日、夕方にテレビをかけたらNHKのニュース(関西のローカル)が終わるところで、「今夜『タローマン』を一挙放映します」とかなんとか言ってる。タローマン?なんじゃそら?と思ったが昨日はいろいろばたばたと、私にしてはまじめに仕事。そして一段落してお風呂に入って出てきてテレビをかけようとして、そういえば夕方のニュースであんなこと言ってたなと思い出し、テレビ欄を見たらその「タローマン」が間も無く始まるという時間。
そんなわけで、前知識ゼロで見て、えー、なにこれおもしろーい! 70年代にこんなのあったん? 知らんかったー! などと喜んだ私。完全にだまされてました。タローマンって、岡本太郎(いま中之島美術館で展覧会をやってるらしい)の作品にインスピレーションを得て作った70年代特撮風の短編なのだった。そういえば、見ていると「あれ? なんかおかしい・・・ような・・・」というところがちら、ちら、と出てきて、だんだんそれが積もり積もって「変だ!」となるのだが、なんせひとつが5分で、それを10本まとめて放映、もちろんNHKだから間にCMもなく、したがってスマホでちょちょいと検索かけるひまもなく、流れるようにだまされるまま10本全部見てしまったのでした。

あとで調べると7月にすでに放映されて、昨日は再放送だったのね。そんなことも知らなかった。やーね。

いや、しかし、サカナクションの山口氏といい、構成もよくできてる。思えば私みたいに「なんか変だけど?」と思いながらめちゃくちゃおもしろがって、終わってから「えー、ちきしょー!」と気づく人って、ある意味理想的な視聴者なんじゃなかろうか。

ぎりぎり始まる直前にいやな予感がして、実はしっかり録画したのだがそれは正解だったようだ。私えらい。間違って削除しないように気をつけよう(たまにやるので)。

あの戦争のこと

戦争のことをブログで書くなんて初めてかもしれない。毎年8月になるとうっとうしいくらい新聞やテレビではあの戦争の特集が組まれるし、なにもわざわざ私が書くこともないだろうと、だれも聞かないのに言い訳を考えたりしていた。2013年以降は夫が亡くなった月でもあるので、正直そっちのほうへの思いのほうが強かった。これはまあごまかしではない。新聞では相変わらず8月6日も8月9日も8月15日も、亡くなった人それぞれにかけがえのない生活があり、それが失われたことを語るに徹しているが、なんでそういうことになったのかについては以前からそうだけど、年々ごまかされているような気がする。それなら私が亡き夫のことを優先してもバチはあたらないだろう。と思ったりする。

昨日(16日)、テレビでNHKスペシャル「絶望の戦場」を見ていたら、あまりのひどさに泣けて仕方なかった。ずさんな計画を強硬にすすめ、いざとなると兵隊を置いてさっさと逃げる将校たち。その前編ではいわゆる大本営発表のことが取り上げられていた。どちらもひどい。そして2022年の現実を思うと、ひょっとしてこれはまったく同じ状況なのかもと思わされる。

今日、Twitterを眺めていたら、ある人が連投していた。それを読んでたらまた泣けてしまった。

──「戦争で命をかけて戦った」から「そして今の日本がある」と言う人は、因果関係を論理的に説明すべきだ。財閥解体、農地改革、女性参政権を含む普通選挙の実施、国民主権・基本的人権・平和的生存権、今我々が享受している自由や権利は全て敗戦の結果もたらされたもの。戦いで手にしたものではない。

戦後の経済発展、高度成長も、国連加盟を前提としたIMF-GATT、統一世界市場への参加、特にアメリカへの「集中豪雨的」輸出によってもたらされたものだ。経済発展という面でも、「あの戦い」との連続性は存在しない。

僕は「あの戦争で犠牲になって倒れた多くの方たちのおかげで、今日の我々がある」という事の本当の意味は、日本国憲法に凝縮された「戦後的価値」に導いてくれたことだと思っている。立憲主義も、国民主権も、基本的人権も、平和主義もこの賜物であり、戦陣に散った先輩たちの贈り物だと思っている。──

写真は直接関係なく、大阪駅です。

白米?


最近、気づいたが「白ごはん」のことを「白米」という(いや、「書く」?)人が増えているようである。なにそれ。白米といえばお米。玄米を精米したやつ。ご飯に炊く前の状態だと思ってたが違うんかい。

少し前、新聞記事で「その日、彼女はコンビニで白米と鳥の唐揚げの弁当を買おうとして、やめた。」みたいな文章を(確か一人暮らしの女性が困窮しているという記事で)見かけた。気になっていたが、その後、ネットでも複数回見かけた。私は一瞬プラスティックの容器に鳥の唐揚げが入っていて、その横にさらさらしたお米が入っている弁当を思い浮かべて、「いや、そんなもん、どうやって食べんねん!」と脳内でツッコミ、「ちがうだろー!」と声をあげ、それから「は、はーん」と思う。
なんでそんな書き方をするか、推測するに・・・。
「ごはん」と言いたいが、朝ごはん、昼ごはんというように「ごはん」という言葉は「食事」という意味にも使うから、「おかず」の対義語として使っているかどうかわかりにくいのではないかという配慮?から「白米」にしようと思うわけかな。「白米」のほうが正確っぽいと思ったんだろうか。
いや、でも「ごはんと鳥の唐揚げの弁当」で問題ないよね。書いた人は特に悩まず、ふだんから「白米」をよく使ってるんだろう。日常会話ではたぶん「ごはん」とか「飯」というと思う。

あ、そうか。「白飯」のまちがいから「白米」を使うことが広まりつつあるのかも? えーっ!

とにかく変だ!

と私は思う。思うけど、こんなふうにあちこちで用例を見かけるようになったということはもう手遅れだろう。流れる言葉は止められない。私はあきらめがいいのだ。悲しいけど。世の中、思い通りにならないんだよ・・・。
あーあ。いずれわたしも、ひょっとして長生きした折には「白ごはん」のことを「白米」というようになるんだろうか。(こんな言い方おかしい・・・ごはんだよ、ごはん!)とどこかで思いつつ。私って気が弱いから。いやだなー。

写真は梅申東交差点の陸橋。iPhoneのパノラマで撮るとおもしろいです。おととい撮影。