投稿者「ヤマシタクニコ」のアーカイブ

ヤマシタクニコ について

夜になると目が冴える。休日の午前は私にとって存在しない世界。 ぼうっといろんなこと考えるのが好き。なのに気が短い。なんでだろ。

映画観てきた

おととい、「フェイブルマンズ」を観てきた。恥ずかしながらスピルバーグ好きだから。はじめて「おもしろい!」と思った映画が「未知との遭遇」だったし。

え、それ以前はおもしろいと思わなかったの?と聞かれそうだけど、そうなのよ。「未知との遭遇」のとき、すでに子供でもなんでもなかったけど、そして私の若い頃は男の子とデートといえば、無難に「映画」だった(今はどうなんだろ?)のだけど、特に・・・あ、そうか。その場合はだいたい男子から「○○観に行かない?」と提案されて、なんとなく特に反対するでもなく一緒に観た、という感じだったと思う。主体性ないんです、私。スピルバーグがこの世にいなかったらずっと、そういう状態が続いていたかも。人に勧められて観て、まあこんなもんかな・・・よくわからんな・・・みたいな。

なので、スピルバーグといえば私の恩人。その、恩人のスピルバーグの作品を最近観ていなかったので寂しいと思ってたところなんである。

「フェイブルマンズ」はスピルバーグの自伝的な物語だそうだ。その通り、主人公が子供の頃に映画に魅せられ、自分で映画を作り始め、どんどんのめりこみ、一方で家庭でも学校でもいろいろあったけど、ついに念願の映画の道を本格的に歩み始めるというところまでが描かれる(荒っぽい紹介)。

映画にくわしい人はこういう映画を観たらたぶん、もう、いくらでも語り出すだろう。あの映画は、とか、あのシーンの意味は、とか。
正直私はそのへんはちゃんとわかってない。私的にはクローゼットでフィルムを見せられたママの表情が次第に変わり、やがてはらはらと涙するシーンがクライマックスだ。
バート(パパ)もベニー(パパの親友)も、そしてママもみんないい人で、魅力的で、それでもしんどいことは起きてしまうのだ。そしてママが言うように「起こったことにはすべて意味があるのだ」。

あ、下の絵は全然似てないですが、気にしないでください。

映画観てきた

昨日観たのは「小さき麦の花」。中国の映画だ。

中国の映画を見ていると、しばしば都会と農村の格差に驚く。この映画でもそうだ。いつの話だろうかと思っていると2011年である。確かに、都会に出ていくとそこは普通の現代の街だ。ただし、主人公はそこにロバを連れ、荷車に荷物を載せていくのだけど。こういうところがおもしろいと言うか、中国は不思議な空間である。

甘粛省の砂漠がすぐそばに広がっているようなところで農民として暮らすヨウティエが障害(足が不自由なだけでなく排尿障害がある。脊髄の障害なのか)のある内気な女性、クイインと結婚、ふたりで暮らし始める。土地を耕し、麦をまく。それだけではなく、土を練って型枠に入れ、表面をならして地面にひっくり返し、乾かす。レンガがそうやって2個ずつできる。日々それを繰り返し、レンガがどんどんできる。それを積み上げて家を作る。おお、家はこうやってできるんだ! 自分たちが住む家は自分たちで作るんだ! なんだか感動する。さらに、鶏を飼う。豚を飼う。麦だけでなくとうもろこしやジャガイモも収穫する。暮らしがだんだん安定してくる。
おー、すごいなあと思う。人間はこうやって生きてきたんだ。そして、夫婦というものはこのように2人でともに働き、支え合ってきたのだと思う。

ヨウティエはものすごい働き者だ。手際がすごいなと思ってたら演ずるのは本職の農民で監督の叔父さんにあたる人だそうだ。プロの俳優ではないが、すでに何度か映画に出演しているとか。

家をつくる途中、屋根の樋にガラス瓶を埋め込む。なんでそんなことをするのかよくわかってないのだけど、夜に風が吹くとそのガラス瓶が歌うように鳴る。
「前の家よりいい音で鳴る」と妻のクイインがうれしそうに言う。そうなんだ。自分たちの家だもんな。

2人は見合い結婚で、特に感動もなく一緒になったように見えた。だが、実際は会ったときにすでに感じるものがあったようだ。互いの優しさ、誠実さに。そしてゆっくり、ゆっくりと日々を重ねているうちに愛が深まってゆく。このあたりが丁寧に丁寧に描かれ、見ているうちに涙があふれる。愛する人とともに生きることほど幸福なことはない。そう強く思うから、でも一方で、こんな幸福は長くは続かないのではないかという予感がして。そして、予感はあたるのである。

風景がとても美しい。土にまみれた仕事着の色合いも自然の中に溶け込み、いい感じである。
ロバってかわいいなと思った。冒頭のシーン、花びらのような大きな雪片が舞う中で初めて登場するあの白と黒のロバが、ほんとにかわいく、2人をけなげに支えてくれるのである。

アップグレードはたいへん

最近、どうもこれはOSをアップグレードしないといけないなと思うようになっていた。
facebookの仕様が一部変わったがsafariがそれに対応できていないみたい。コメントを読むときに別ウインドウが開くのだが、そこでうまくスクロールできない。下のほうのコメントが読めない。
yahoo!のトップページに何か注意書きが出る。どんなだったか覚えていないけど、要は「君のブラウザでは悪いけどちゃんと表示できないよ」ということらしい。
気分悪いのでfacebookやyahoo!を見るときはChromeにしていた。全面的にChromeにしたらよさそうなもんだけど、それはそれで若干問題があって(詳細は略す)。

決定的だったのはとある通販サイトで注文しようとしたとき。最後の最後でうまくいかない。何回やってもエラーが出る。それでクレームのメールを入れたところ返信は「当サイトはOS10.15以降に対応しています」

がーん

そうなんです。私の今使ってるMacBookProは2019年に買ったものでそんなに古いわけではないんだけどOSのアップグレードをさぼっていて「Mojave」(10.14.5)のままなのだ。それって、もはや見放される対象になるのか。どうでもいいと思われるのか。くやしいいいっ。

それで、アップグレードすると決心してからちょっとばたばたする日が続き、一段落したので決行したのが一昨日の夜。最新のOS「Ventura」が無事インストールできた(けっこう時間かかった)。だが、その後の「アップグレードにまつわる諸症状」がいろいろあって、昨日はその対応で終わってしまった。疲れた。でも、気分一新。すっきりした! これからはこまめにアップグレードすることにする。

でも、ずっと前から使っていたFTPソフト「Fetch」の日本語版はもうなくなっていたことを知る。これを機にcyberduckを使うことにした。
Officeは古いやつだったのでOSが新しくなると使えなくなったが、もともとWordもExcelも自分ではほとんど使わず、送られてきたものを開くだけだったので、それならPagesやNumbersでいけるらしい。などと知る。
まあいろいろ、どんどん変わるんだなと思う。でも、昔はOSが変わるってもっと大変なことだったように思う。いまはすべてカジュアル化しているとも思う。

ちなみに「Mojave」は「モハベ」と読むことを、これを機にはじめて知ったのである。
私はずっと、ひそかに、心の中で「もじゃべ」と読んでいた。別に人前で声に出して読む機会もなかったのでそのまま過ごしていたんだけど、知ることができたのは良かったのかどうなのか。なんとなく毛深いおっさんをいつもイメージしていた。このおっさんとももう別れてしまった。達者でな。

見学会に行ってきた

うちの近所で進められている団地建て替え計画。建物が完成して盛んに宣伝してるところだが、その見学会に昨日行ってきた。もっとも今回は申し込みはせず、「見るだけ」。

総戸数500戸超のうち400戸程度はすでに元の居住者や近く解体予定住居の住人の優先申込ですでに埋まっていて、残りはほとんどが1Rや1DK。狭くて家賃高い。少々高くなるのは想定内だが、どうみても学生さんか単身赴任用という感じだし、2 DK以上はほんの少しなのでたぶん抽選ではずれるだろう。次回でいいわ、ということにした。

いま住んでるところは築50年の古い団地だからそれと比べたらあたりまえだろうけど、いやあ、やっぱり設備がいいわ。ビルトインコンロ付き、エアコン1台付き、オートドアロックシステム、無線LAN機能搭載給湯リモコン、宅配ボックスあり。バリアフリー当然、浴室やトイレ、広いバルコニーはずぼらな私でも掃除がしやすそう。窓ガラスは複層ガラスとかいう、結露しにくいやつらしい。おお、冬の朝の日課となっている結露処理から逃れられたらどんだけうれしいか! だいたい今は洗濯機置き場がなくてぶつぶつ言ってるのだからもう、話にならないレベルなんである。もちろんエレベーターがあるので何階があたっても平気だし(古いエレベーターなしの団地だと4階や5階は空室だらけだったりする。私もいまさらそれはごめんこうむりたい)。

途中、ご高齢のカップルと一緒になったが、奥さん(たぶん)のほうが「畳の部屋がないのよね・・・」とつぶやいていた。

そうだ。そういえば、畳だけじゃなく・・・襖も障子も全然なかった! てことは、ぼろぼろになった襖を見ながら「張り替えなくちゃ」「まだいいか」と毎日煩悶することもなくなるわけだ! 業者さんに張り替えをしてもらうとなると枚数が多いからけっこうな出費だし、自分でやると腰が痛いし、そういう悩みから解放される。これは大きい。でも、そうか・・・畳屋さんも襖屋さんも失業じゃないですか、これは。いや、そんなことないよね、襖屋さんはきっと、建具全般やってるだろうからだいじょうぶだよね(何を心配してるんだ)。

10階から。池に面した部屋はいいけど、部屋によるよね、眺望は。


通路に面したドアの前が若干広くなってるのもいいなと思った。ついでにもうちょっと広くて門扉がついてグリーンでも置けたらたら高級マンションぽいけどそこまで望むまいて。

というわけで見学会はけっこうおもしろかったわけだが、後になってふと思い出したのは、以前、ここの団地が春になると満開の桜に囲まれていたことだ。11階建の棟の足元にふわりふわりと霞がたなびくように、淡いピンクの花が満開だった様子をいまでも覚えている。写真にも何回も撮った。

新しい建物のまわりにはほんのちょっとだけ細い若木が植えられていたが、あれだけかな。やっぱり木があるとなんとなくいい感じなんだけど・・・今住んでるところは春はスミレ、夏はへんてこなキノコがにょきにょき、秋になるとどんぐりもごろごろ転がっててこけそうになるのも一興なわけだが、これ、よく見たらほとんど「土」が見えない。うーん、ちょっと、あれかも。

本歌取り

Twitterの朝ドラ界隈ではヒロインの彼氏・貴司が作った短歌「君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた」が万葉集の狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の歌「君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも」の本歌取りであることが明かされた昨日から、俵万智がそのことに気づけず悔しがったり岩波書店のアカが「うちふるえました」とツイートするなどちょっとした騒ぎになっているが、この人の名前(狭野茅上 娘子とも書くようだ)を覚えるのに丸一日かかってしまった。そしてまた忘れるだろう。なので、ここに書いておこう。

ともあれ、本歌取りというのはレイヤー構造であるわけなのだなあと思う。元の歌は激しい情念のこもった歌だが、貴司の歌は穏やかで、距離をおいてみつめている風である。だが、本歌取りだとわかった人には元歌の情念の世界が透けてみえる、みえてほしいと作者は願っているということか。
掛詞とかもそのひとつなのだろうけど、短い中にも何重にも世界が重なり、複雑な景色をみることができる、そのための技法が長い間に蓄積されてとんでもないことになっているようだ。これはやはり近づかないほうがよさそうだ。

狭野弟上娘子は当時の女官だったそうだ。女官ってどんな服を着ていたのかなと思い、ぐぐって出てきた画像を参考にした。チマチョゴリと似ているね。

雪でいろいろ思い出す

何かを読んだり聞いたりしているうちああ、そうだ、あれはどうしたとか、これはどういう意味だったろうとか、あの人はこんなこと言ってたなと思ったり、次から次へと思い出し、そして気がつけば亡くなったひとのことをぼんやり思っていたりする。

雪の写真や映像を見ているうちに高村三郎さんのことを思い出した。若い頃お世話になった人たちのうちのひとり。五十代で亡くなられたけど、いまでもあの笑顔、口調は覚えている。岩手県雫石の出身で、小説も書くが俳句も若いうちからつくっていた。

雪しまき顔ふせ歩く子が来たり

雪の面をひくく這いゆく吹雪かな

雪降るや野に何もなし音もなし

(いずれも「春の泥」所収)

写真は岩手県じゃなく新潟で撮ったものだけど。

傘をさす人

水曜日。午前中はこんなふうにいい天気だった。これは鉄道沿いにカイヅカイブキの街路樹(防音林だと聞いたことがある)が延々と続く道。途中、桜やトウカエデも交じって、季節によってはそちらのほうが目立つけど、カイヅカイブキの独特な姿は好きである。

傘をさした人でも通ったら絵になるけど夏じゃないし、もちろん雨も降ってないので無理だな。
と思ってたらやってきたのでびっくりした。願えばかなうって本当だったのか。

ダウン着て日傘さしてる人ってあまりいないと思う。私のために無理してさしてくれたのか。それはないか。

強風注意!

洗濯ネットがひとつ、見当たらない。ベランダでネットから出して・・・干して・・そのときどっかに飛んでったもよう。気づいたらなかった。今日はめっちゃ風が強くて、ハンガーに干した割烹着(冬場は着てます。便利だから)なんかシェーって感じでまくれあがってたし。

見かけたらつかまえといてください。うちで一番大きな洗濯ネットだったんです。

早起きって

先週は早起きしないといけない日が多くてそんな日は結局、日中眠くて眠くて使い物にならず、「もー、これって『早起きは三文の損』じゃないの?!」とむくれているヤマシタの絵をAIに描かせてみました。うそですけど。

ヤマシタさんはこんなんじゃない!どこがヤマシタやねん!と言われてもしりません。AIが描いたんですから。うそですけど。

思い出して

昨日の朝ドラはつらかった。まあちゃんが倒れたときを思い出して。

深夜の病院は照明が落とされて暗く、待合室のソファ付近とかだけ明かりがついていた。私以外誰もいないそこで2時間ほど待たされた。そんなに時間がかかるのは一生懸命治療してくれてるからに違いないし、きっとだいじょうぶだと思っていたのにそうじゃなくてぼうぜんとしたあの夜を思い出した。
あとから思えば前兆だったことも気がつかずにいた自分がどれだけあほだったかも、思い知らされた。
そんな何もかもがよく似ていて、つくづくリアルなドラマだった。テレビの前の私は永作博美の何倍も泣いてしまった。

で、下の絵は全然関係なく、この間の電車の中でみかけたお坊さんです(なんだそりゃ)。
旭屋のカバーがかかった本を悠然と読んでおられました(つい敬語)。たまたまお坊さんの背後に「優先席」の表示があったんですが、たまたまです。ちなみに電車は各停で、とてもすいていました。